HAIKU

2017.01.04
2017年もよろしく!

「アナログレコードの勧め」

年が明けて最初のON THE STREETは、僕が昨年始めた新しいことを紹介しようと思う。「鴻」が10周年を迎えた昨年は楽しいことが多かったが、中で新規にスタートさせたのは「弱虫のロック論 番外編=昔のアナログレコードを大きな音で聴く」というイベントだった。

1960年代から80年代までは、音楽を聴く方法としてアナログ盤が主流だった。大きな家の応接間にはステレオが鎮座し、音楽好きの一家の主が、スピーカーの前のソファにデンと座ってクラシックやオペラのレコードをかけながら、ゆっくりくつろいでいたものだ。

レコード盤は傷つきやすいので、子供はなかなか触らせてもらえない。音楽好きの子供たちは、父親が出掛けた隙を狙って自分の好みのレコードをかけて楽しんだ。レコードに針を置くブチっという音、レコードの溝にたまった埃や細かい傷が立てるチリチリという音を含めて、ビートルズやベンチャーズの音楽を楽しんだ。それは昭和を代表する風景のひとつだった。

その後、安価なステレオが売り出され、レコード文化は普及していく。70年代末にはカセットテープが登場。さらに80年代末にCDに取って替わられるまで、レコードは音を運ぶ媒体として重要な役割を果たした。レコードジャケットは、壁に飾っても存在感のある大きさがあり、それも大きな魅力だった。

それから25年あまり。今ではレコードを聴く機会は激減してしまった。CDでさえあまり見かけなくなった。音楽はデジタルデータと化し、ケータイやタブレットの中に潜り込み、スピーカーではなくヘッドフォンで聴かれるようになった。音楽が専門の僕でさえ、レコードを聴くことはほとんどなくなってしまっていた。

そんな昨今、知り合いからアナログ盤を使ったイベントをやってみないかという誘いがあった。「君ならどんなことをやりたい?」と訊かれたとき、すぐに思い浮かんだのは「日本のレコードを爆音で聴く」という企画だった。

学生の頃から音楽が好きだった僕は、あちこちの“ロック喫茶”に出入りして海外のロックを爆音で聴いていた。だが、日本のロックやポップスを爆音で聴かせてくれる店は皆無だった。僕は音楽の仕事を始めてから、プロの使うスタジオに取材で出入りするようになった。その日のレコーディングが終わると、一日の成果をスタジオにいる全員で聴く。それも爆音でだ。爆音で聴くのは外国のハードロックだと思い込んでいた僕は、日本のポップス、J-POPを初めて爆音で聴いて、あまりにも素晴らしいのでショックを受けた。その経験が蘇ったのだった。

僕が「J-POP爆音イベントをやりたい」と言うと、相手は不思議そうな顔をして、「面白いのかなあ?」と首を傾げた。しかし僕は確信があったので、企画を押し通した。

小さなライブハウスでお客さんは全員、椅子に着席して大きなスピーカーと向かい合う。オーディオマニア向けのイベントではないので、音はちょっと雑な方がいい。そこでユーミンや山下達郎など、厳選したレコードを大きな音でかけたのだった。

客はみんな、かしこまって目を閉じたりしながら耳を傾けている。そういえば昔、ステレオのある家に行ったとき、同じような光景を目にしたものだった。イベントが終わった後、みなさんも「目をつぶって聴いていた昔を思い出した」と言っていた。

レコード盤の音は、奥行きがある。“空気感”というやつだ。イベントの途中でCDをかけて比べてみると、その差は歴然。もちろんCDの方が雑音がなく、音の一つ一つがきれいに聴こえる。ただし、サウンドは平面的だ。CDが4Kテレビの緻密な平面画面だとすると、爆音レコードは円空の一刀彫のような荒々しい立体感がある。

イベントを実行してみると評判が良く、昨年は4回、新宿の中古レコード店で開催した。昔のレコードを今の感覚で聴く。僕自身、たくさん発見のあるトライだった。

松尾芭蕉に「月いづこ鐘はしづみて海の底」という句がある。月も鐘も見えないのに、鐘と月は海の底で確かに出会っている。“不在”をテーマにした、恐ろしくモダンな感覚の一句で、江戸時代の作とは思えない。実際、“不在”というコンセプトが一般的ではなかった江戸前期に、この句がどういう評価を受けたかはわからない。しかし芭蕉は確かに“不在”を俳句にした。江戸中期の蕪村は、「橋なくて日ぐれんとする春の水」で橋の非在を詠っているが、芭蕉の現代的な不在とは一線を画している。芭蕉はそれほど鋭い感覚で鐘と月を詠い、現代人に何かを問いかけてくる。江戸が古いのではなく、こちらの感覚が研ぎ澄まされていれば、新しい発見を得ることができるのだ。

J-POPの古いレコードは、爆音で聴かれることを想定して作られたわけではないだろう。だが、聴く側の状況が変われば、想像もできなかったような楽しみ方を発見することがある。

僕は今年もレコード盤の新しい聴き方を探すように、いろいろな俳句の読み取り方に挑戦していきたいと思う。本年もよろしく!

 

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Facebook by Yu-ichi HIRAYAMA

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BOOK by Yu-ichi HIRAYAMA

弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2017年もよろしく!

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年が明けて最初のON THE STREETは、僕が昨年始めた新しいことを紹介しようと思う。「鴻」が10周年を迎えた昨年は楽しいことが多かったが、中で新規にスタートさせたのは「弱虫のロック論 番外編=昔のアナログレコードを大きな音で聴く」というイベントだった。

1960年代から80年代までは、音楽を聴く方法としてアナログ盤が主流だった。大きな家の応接間にはステレオが鎮座し、音楽好きの一家の主が、スピーカーの前のソファにデンと座ってクラシックやオペラのレコードをかけながら、ゆっくりくつろいでいたものだ。

レコード盤は傷つきやすいので、子供はなかなか触らせてもらえない。音楽好きの子供たちは、父親が出掛けた隙を狙って自分の好みのレコードをかけて楽しんだ。レコードに針を置くブチっという音、レコードの溝にたまった埃や細かい傷が立てるチリチリという音を含めて、ビートルズやベンチャーズの音楽を楽しんだ。それは昭和を代表する風景のひとつだった。

その後、安価なステレオが売り出され、レコード文化は普及していく。70年代末にはカセットテープが登場。さらに80年代末にCDに取って替わられるまで、レコードは音を運ぶ媒体として重要な役割を果たした。レコードジャケットは、壁に飾っても存在感のある大きさがあり、それも大きな魅力だった。

それから25年あまり。今ではレコードを聴く機会は激減してしまった。CDでさえあまり見かけなくなった。音楽はデジタルデータと化し、ケータイやタブレットの中に潜り込み、スピーカーではなくヘッドフォンで聴かれるようになった。音楽が専門の僕でさえ、レコードを聴くことはほとんどなくなってしまっていた。

そんな昨今、知り合いからアナログ盤を使ったイベントをやってみないかという誘いがあった。「君ならどんなことをやりたい?」と訊かれたとき、すぐに思い浮かんだのは「日本のレコードを爆音で聴く」という企画だった。

学生の頃から音楽が好きだった僕は、あちこちの“ロック喫茶”に出入りして海外のロックを爆音で聴いていた。だが、日本のロックやポップスを爆音で聴かせてくれる店は皆無だった。僕は音楽の仕事を始めてから、プロの使うスタジオに取材で出入りするようになった。その日のレコーディングが終わると、一日の成果をスタジオにいる全員で聴く。それも爆音でだ。爆音で聴くのは外国のハードロックだと思い込んでいた僕は、日本のポップス、J-POPを初めて爆音で聴いて、あまりにも素晴らしいのでショックを受けた。その経験が蘇ったのだった。

僕が「J-POP爆音イベントをやりたい」と言うと、相手は不思議そうな顔をして、「面白いのかなあ?」と首を傾げた。しかし僕は確信があったので、企画を押し通した。

小さなライブハウスでお客さんは全員、椅子に着席して大きなスピーカーと向かい合う。オーディオマニア向けのイベントではないので、音はちょっと雑な方がいい。そこでユーミンや山下達郎など、厳選したレコードを大きな音でかけたのだった。

客はみんな、かしこまって目を閉じたりしながら耳を傾けている。そういえば昔、ステレオのある家に行ったとき、同じような光景を目にしたものだった。イベントが終わった後、みなさんも「目をつぶって聴いていた昔を思い出した」と言っていた。

レコード盤の音は、奥行きがある。“空気感”というやつだ。イベントの途中でCDをかけて比べてみると、その差は歴然。もちろんCDの方が雑音がなく、音の一つ一つがきれいに聴こえる。ただし、サウンドは平面的だ。CDが4Kテレビの緻密な平面画面だとすると、爆音レコードは円空の一刀彫のような荒々しい立体感がある。

イベントを実行してみると評判が良く、昨年は4回、新宿の中古レコード店で開催した。昔のレコードを今の感覚で聴く。僕自身、たくさん発見のあるトライだった。

松尾芭蕉に「月いづこ鐘はしづみて海の底」という句がある。月も鐘も見えないのに、鐘と月は海の底で確かに出会っている。“不在”をテーマにした、恐ろしくモダンな感覚の一句で、江戸時代の作とは思えない。実際、“不在”というコンセプトが一般的ではなかった江戸前期に、この句がどういう評価を受けたかはわからない。しかし芭蕉は確かに“不在”を俳句にした。江戸中期の蕪村は、「橋なくて日ぐれんとする春の水」で橋の非在を詠っているが、芭蕉の現代的な不在とは一線を画している。芭蕉はそれほど鋭い感覚で鐘と月を詠い、現代人に何かを問いかけてくる。江戸が古いのではなく、こちらの感覚が研ぎ澄まされていれば、新しい発見を得ることができるのだ。

J-POPの古いレコードは、爆音で聴かれることを想定して作られたわけではないだろう。だが、聴く側の状況が変われば、想像もできなかったような楽しみ方を発見することがある。

僕は今年もレコード盤の新しい聴き方を探すように、いろいろな俳句の読み取り方に挑戦していきたいと思う。本年もよろしく!

 

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著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店