HAIKU

2021.04.05
『言葉にできない想いは本当にあるのか』 いしわたり淳治・著 筑摩書房・刊 

『言葉にできない想いは本当にあるのか』 いしわたり淳治・著 筑摩書房・刊 
 『言葉にできない想いは本当にあるのか』は、若手作詞家の中でも理論派として知られるいしわたり淳治のコラム集だ。テレビ番組や広告、本、映画、もちろん音楽など、日常的に触れるメディアから発せられる“気になるフレーズ”を取り上げて独自の視点から解説してみせる。言葉の仕事をしている人ならではの敏感さと、ロジックの意外性で楽しめる一冊になっている。
 いしわたりは青森が生んだ超個性派ロックバンド“スーパーカー”のギタリストとしてデビューし、バンドの全曲の作詞を担当。バンド解散後、作詞家としてリトルグリーモンスターやスーパーフライに歌詞を提供したり、プロデューサーとしてグリム・スパンキーなどの制作を手掛けている。最近ではテレビ番組“関ジャム完全燃SHOW”での歌詞の論理的な分析が人気を集めている。

 この本におけるいしわたりの立ち位置は、前書きに顕れている。よく「言葉にできない想い」というフレーズを耳にするが、それを言っている人は「日頃自分の感情をすべて言葉に出来ている」ということになる。「それって本当?」といしわたりはツッコミを入れる。
言葉は他人に感情を伝える道具なのだが、伝えられるのは「感情の近似値」に過ぎない。そのため「愛してる」という言葉によりリアリティを与えるために、「君の笑顔だけが僕の幸せ」などと具体的な事象に言い換えたりする。それでも自分の「想い」と言葉には隔たりがあるという。そんなことばかり考えているいしわたりは、誰かが言葉の新しい使い方をしていると嬉しくなると述べるのだった。

 愛してるだとか悲しいとか言わずに、想いを具体的なモノに託す方法は俳句にも通じている。俳句の場合は五七五の調べが感情を伝える手助けをし、歌の場合はメロディがその役割を担う。
「なきがらや秋風かよふ鼻の穴 飯田蛇笏」(季語:秋風 秋) 
 「鼻の穴」のリアリティには驚かされる。もはや生者としての反応を示さなくなった空洞に焦点を当てて、深い哀しみを表わしている。この句のあまりにも突き放した表現には賛否両論あるが、故人をモノとして突き放しているからこそ世の無常が伝わってくるのだと僕は思う。

 松任谷由実の楽曲デジタル配信がスタートするときのCMのキャッチコピーは、「これからはじめてユーミンを聴ける幸せな人たちへ。」だった。このコピーに対していしわたりは、「遠足は当日よりも前の日の方が楽しい」と共感する。
「文月や六日も常の夜には似ず 松尾芭蕉」(季語:文月 ふみづき 秋) 
 七夕はその前日も何やら艶めいているようだという、芭蕉の心情から生まれた句。いしわたりにすれば、これも七夕の優れたキャッチコピーだということになるのかもしれない。

 「心が折れる」というフレーズを初めて聞いたとき、いしわたりは「えっ、心って棒状だったんだ?」と思ったと言う。一般的な「心」のイメージはハート型で、どちらかといえば平面だろうし、だから「心が割れた」は理解できる。「心が晴れる」という言葉もあるから、基本的には透明な素材でできているのではないかと想像を広げる。心が棒状だと知らなかったいしわたりは、そこを出発点にして論を展開。それが滅法面白く、この本の大きな魅力になっている。
「去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子」(季語:去年今年 こぞことし 新年)
 虚子が時間という抽象的なものを、見事に具象として捉えた有名な句だが、おそらく虚子は「時間が折れる」とは思っていなかったのではないか。もしいしわたりがこの句を読んだら、どんな解説をするのか想像すると楽しくなった。

 テレビ番組『アメトーーク! 緊急!!江頭2:50SP』での面白いやり取りを、いしわたりは取り上げる。芸人の“江頭2:50”が「好きな食べ物は?」と聞かれて、「ハマチの刺し身」と答えた。この答をいしわたりは、「なんてちょうどいい意外さだろう」と思ったという。確かにこのひと言は、自己紹介として秀逸だ。初対面の人から「初めまして、○○です。好きな食べ物はハマチの刺し身です」といきなり言われたら、そのキャラクターが刷り込まれて絶対に忘れない。この「ちょうどいい意外さ」は、俳句でもかなり有効な名句の条件になる。
「泰山木白波のごと崩れ去りぬ 木下杢太郎」(季語:泰山木 たいざんぼく 夏)
 泰山木の真っ白な大輪が、崩れるように散っていく。その様を白波と言い留めた。この比喩はちょうどいい意外さで、読む者に泰山木の花を印象付ける。狙い過ぎでもなく、付き過ぎてもいない。それは日常の詩である俳句の真理であり、いしわたりの関わるポップスやロックのコツでもある。そしてそこに、いしわたりの言葉を扱う人間としての覚悟と、表現者ならではの気付きを僕は感じる。本書は、普段見過ごされがちな言葉の裏側にあるものを、いしわたりが次々と発見して楽しませてくれる快著だ。

ちなみに吉田鴻司師にも、ちょうどいい意外性を持った自己紹介の句がある。もし鴻司師に「最近、ハマっているものは何ですか?」と聞いてみたとしよう。
「この頃や甘さが好きで走り藷 吉田鴻司」(季語:走り藷 はしりいも 夏)

             俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
                      2021年4月号より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2021.04.05
『言葉にできない想いは本当にあるのか』 いしわたり淳治・著 筑摩書房・刊 

『言葉にできない想いは本当にあるのか』 いしわたり淳治・著 筑摩書房・刊 
 『言葉にできない想いは本当にあるのか』は、若手作詞家の中でも理論派として知られるいしわたり淳治のコラム集だ。テレビ番組や広告、本、映画、もちろん音楽など、日常的に触れるメディアから発せられる“気になるフレーズ”を取り上げて独自の視点から解説してみせる。言葉の仕事をしている人ならではの敏感さと、ロジックの意外性で楽しめる一冊になっている。
 いしわたりは青森が生んだ超個性派ロックバンド“スーパーカー”のギタリストとしてデビューし、バンドの全曲の作詞を担当。バンド解散後、作詞家としてリトルグリーモンスターやスーパーフライに歌詞を提供したり、プロデューサーとしてグリム・スパンキーなどの制作を手掛けている。最近ではテレビ番組“関ジャム完全燃SHOW”での歌詞の論理的な分析が人気を集めている。

 この本におけるいしわたりの立ち位置は、前書きに顕れている。よく「言葉にできない想い」というフレーズを耳にするが、それを言っている人は「日頃自分の感情をすべて言葉に出来ている」ということになる。「それって本当?」といしわたりはツッコミを入れる。
言葉は他人に感情を伝える道具なのだが、伝えられるのは「感情の近似値」に過ぎない。そのため「愛してる」という言葉によりリアリティを与えるために、「君の笑顔だけが僕の幸せ」などと具体的な事象に言い換えたりする。それでも自分の「想い」と言葉には隔たりがあるという。そんなことばかり考えているいしわたりは、誰かが言葉の新しい使い方をしていると嬉しくなると述べるのだった。

 愛してるだとか悲しいとか言わずに、想いを具体的なモノに託す方法は俳句にも通じている。俳句の場合は五七五の調べが感情を伝える手助けをし、歌の場合はメロディがその役割を担う。
「なきがらや秋風かよふ鼻の穴 飯田蛇笏」(季語:秋風 秋) 
 「鼻の穴」のリアリティには驚かされる。もはや生者としての反応を示さなくなった空洞に焦点を当てて、深い哀しみを表わしている。この句のあまりにも突き放した表現には賛否両論あるが、故人をモノとして突き放しているからこそ世の無常が伝わってくるのだと僕は思う。

 松任谷由実の楽曲デジタル配信がスタートするときのCMのキャッチコピーは、「これからはじめてユーミンを聴ける幸せな人たちへ。」だった。このコピーに対していしわたりは、「遠足は当日よりも前の日の方が楽しい」と共感する。
「文月や六日も常の夜には似ず 松尾芭蕉」(季語:文月 ふみづき 秋) 
 七夕はその前日も何やら艶めいているようだという、芭蕉の心情から生まれた句。いしわたりにすれば、これも七夕の優れたキャッチコピーだということになるのかもしれない。

 「心が折れる」というフレーズを初めて聞いたとき、いしわたりは「えっ、心って棒状だったんだ?」と思ったと言う。一般的な「心」のイメージはハート型で、どちらかといえば平面だろうし、だから「心が割れた」は理解できる。「心が晴れる」という言葉もあるから、基本的には透明な素材でできているのではないかと想像を広げる。心が棒状だと知らなかったいしわたりは、そこを出発点にして論を展開。それが滅法面白く、この本の大きな魅力になっている。
「去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子」(季語:去年今年 こぞことし 新年)
 虚子が時間という抽象的なものを、見事に具象として捉えた有名な句だが、おそらく虚子は「時間が折れる」とは思っていなかったのではないか。もしいしわたりがこの句を読んだら、どんな解説をするのか想像すると楽しくなった。

 テレビ番組『アメトーーク! 緊急!!江頭2:50SP』での面白いやり取りを、いしわたりは取り上げる。芸人の“江頭2:50”が「好きな食べ物は?」と聞かれて、「ハマチの刺し身」と答えた。この答をいしわたりは、「なんてちょうどいい意外さだろう」と思ったという。確かにこのひと言は、自己紹介として秀逸だ。初対面の人から「初めまして、○○です。好きな食べ物はハマチの刺し身です」といきなり言われたら、そのキャラクターが刷り込まれて絶対に忘れない。この「ちょうどいい意外さ」は、俳句でもかなり有効な名句の条件になる。
「泰山木白波のごと崩れ去りぬ 木下杢太郎」(季語:泰山木 たいざんぼく 夏)
 泰山木の真っ白な大輪が、崩れるように散っていく。その様を白波と言い留めた。この比喩はちょうどいい意外さで、読む者に泰山木の花を印象付ける。狙い過ぎでもなく、付き過ぎてもいない。それは日常の詩である俳句の真理であり、いしわたりの関わるポップスやロックのコツでもある。そしてそこに、いしわたりの言葉を扱う人間としての覚悟と、表現者ならではの気付きを僕は感じる。本書は、普段見過ごされがちな言葉の裏側にあるものを、いしわたりが次々と発見して楽しませてくれる快著だ。

ちなみに吉田鴻司師にも、ちょうどいい意外性を持った自己紹介の句がある。もし鴻司師に「最近、ハマっているものは何ですか?」と聞いてみたとしよう。
「この頃や甘さが好きで走り藷 吉田鴻司」(季語:走り藷 はしりいも 夏)

             俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
                      2021年4月号より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店