HAIKU

2022.02.05
『ゴリラの森、言葉の海』 山極寿一・小川洋子 共著  新潮文庫・刊 

『ゴリラの森、言葉の海』 山極寿一・小川洋子 共著  新潮文庫・刊 

ゴリラ研究の第一人者で霊長類学者の山極寿一と、『博士の愛した数式』などで知られる芥川賞作家の小川洋子が、ゴリラと文学について語り合う。専門分野から得たそれぞれの知見は、深くて広い。それらを二人が比較検討し、混ぜ合わせ、最終的には人間の在り方そのものに迫ろうとする。まったく分野の異なる二人だけに議論は予定調和とはいかず、方向が二転三転する様はとてもスリリングだ。
彼らを結びつけたのは「箱庭療法」で有名な京都大学分析心理学教授の河合隼雄氏で、氏の財団が主催する公開対談での二人のトークをまとめたものが本書である。話は当然、ゴリラに留まらず、小説をもはるかに越えて、人類の進化の歴史や地球環境に及ぶ。コロナ禍直前の対話ながら、コロナ禍の現状をどう捉えるかという問いに対しても示唆に富む一冊である。
小川は子供の頃、テレビ番組『野生の王国』が好きで、ある日、インパラ(注:アフリカのサバンナに棲む草食動物)の群が走る姿を見た。細い脚ながら飛ぶように走り、無駄のない動きで見事に群が統率されていることにいたく感動して「自分の知らない世界がある」ことを直感したという。「言葉など意味をなさず、言葉では名付けえない秩序によって守られた世界。その懐かしい場所へ戻ろうとして、自分は小説を書いているのかもしれない」と小川は言う。一方、山極は、ゴリラは人間の鏡であり、「人間の模範であるということ、それから人間の本当の姿を映し出すもの」だと思ってきたという。
言葉では名付けえない秩序によって守られた世界に戻ろうとする小説家と、ゴリラを人間の鏡だとする霊長類学者の対話は、一筋縄ではいかない。だがお互いに相手の考えを探りながら、相違を恐れず真摯に議論を進めていく。
「小川さんは、動物のことが好きで小説によく書きますよね。で、どうですか。動物の心は分かる?」と山極が訊くと、「言葉を持たない相手に言葉を映し出すと、書くべきものがくっきり見えてくるんです」と小川が答える。“言葉の海”に潜って必要な言葉を拾おうとする小説家の工夫が面白い。
このくだりを読んだとき、すぐに次の句が浮かんだ。
「山鳩よみればまはりに雪がふる 高屋窓秋」(季語:雪 冬) 
 窓秋は山鳩に何かを呼びかけた。すると鳩が答える代わりに、空から雪が静かに舞い降りてきた。しかも雪は周りには降っているが、作者と鳩のいる場所を降り残している。この二者で完結した神聖な空間を、窓秋は描きたかった。そのために、言葉を持たない山鳩に呼びかけたのだった。
「私が最も深い共感を覚えるのは、夕暮れにイヌと散歩に行って、『きれいな夕焼けね』とつぶやいて、イヌもそう感じていると思えるときです」と小川が言うと、山極は「言葉をしゃべらない方が、共感できるかもしれない」と答える。
このやり取りを読んだ際、僕の脳裏に浮かんだのは次の句だった。
「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉」(季語:初しぐれ 冬)
 芭蕉は寒さに震えながら、思わず猿に「おまえも小蓑がほしいのか?」と問いかける。そして自分の詠むべき言葉「初しぐれ」を見出したのではないかと思う。
 山極と小川の対談は、最初は一度きりのはずだった。だが興に乗った二人は、その後も対談を重ねる。しまいには二人で山極の研究拠点のひとつである屋久島を旅する。鹿や猿の棲息する原始の森が残る島で、両者はゴリラと小説についての論議を具体的に検証するのだった。谷川を渡っては話し、動物に出会っては実感を分け合う。
旅から帰った山極は、「原始の時代から、ゴリラと人間は歩いてさまざまな森の住民と出会うことによって暮らしてきました。(中略)森は人間が登場する前から存在しているのに対し、言葉は人間以前には存在せず、つくり出さなければ現れないということです」と吐露する。一見、言葉には頼らないと言いたげなように思えるが、山極は「ぼくたち人間が原初の森の精神にもどるにはどうしたらいいのか。それはふたたび言葉の力に頼るしかないとぼくは思います」と続ける。それは冒頭の小川の「懐かしい場所へ戻ろうとして、自分は小説を書いているのかもしれない」という言葉と、見事に対をなすのだった。
「牛死せり片眼は蒲公英に触れて 鈴木牛後」(季語:蒲公英 たんぽぽ 春)
これは酪農家俳人・牛後の代表句だ。牛後はむやみに牛に話しかけない。あくまで客観写生に徹する。それでも牛後と牛との間にある交流が句から滲み出す。死の直前まで牛の見ていた蒲公英が、今、現実のモノとして眼に触れている。無常や残酷などという抽象的な言葉では表せない光景が広がる。言葉以前からあるものを捉えるには、俳句においても動物を鏡にする方法が有効なのかもしれない。そしてそれは作者と動物との緊密な繋がりがないと成立しない。
どうやら俳句は言葉のある世界とない世界の境界線上に存在しているようだ。山極は本書の最後をこんな言葉で締めくくっている。「言葉の海はゴリラの森と地続きでなければならないのです」。
「横臥せる牛みな午(ルビ:ひる)の目をして春 牛後」(季語:春)

俳句結社誌『鴻』2022年2月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2022.02.05
『ゴリラの森、言葉の海』 山極寿一・小川洋子 共著  新潮文庫・刊 

『ゴリラの森、言葉の海』 山極寿一・小川洋子 共著  新潮文庫・刊 

ゴリラ研究の第一人者で霊長類学者の山極寿一と、『博士の愛した数式』などで知られる芥川賞作家の小川洋子が、ゴリラと文学について語り合う。専門分野から得たそれぞれの知見は、深くて広い。それらを二人が比較検討し、混ぜ合わせ、最終的には人間の在り方そのものに迫ろうとする。まったく分野の異なる二人だけに議論は予定調和とはいかず、方向が二転三転する様はとてもスリリングだ。
彼らを結びつけたのは「箱庭療法」で有名な京都大学分析心理学教授の河合隼雄氏で、氏の財団が主催する公開対談での二人のトークをまとめたものが本書である。話は当然、ゴリラに留まらず、小説をもはるかに越えて、人類の進化の歴史や地球環境に及ぶ。コロナ禍直前の対話ながら、コロナ禍の現状をどう捉えるかという問いに対しても示唆に富む一冊である。
小川は子供の頃、テレビ番組『野生の王国』が好きで、ある日、インパラ(注:アフリカのサバンナに棲む草食動物)の群が走る姿を見た。細い脚ながら飛ぶように走り、無駄のない動きで見事に群が統率されていることにいたく感動して「自分の知らない世界がある」ことを直感したという。「言葉など意味をなさず、言葉では名付けえない秩序によって守られた世界。その懐かしい場所へ戻ろうとして、自分は小説を書いているのかもしれない」と小川は言う。一方、山極は、ゴリラは人間の鏡であり、「人間の模範であるということ、それから人間の本当の姿を映し出すもの」だと思ってきたという。
言葉では名付けえない秩序によって守られた世界に戻ろうとする小説家と、ゴリラを人間の鏡だとする霊長類学者の対話は、一筋縄ではいかない。だがお互いに相手の考えを探りながら、相違を恐れず真摯に議論を進めていく。
「小川さんは、動物のことが好きで小説によく書きますよね。で、どうですか。動物の心は分かる?」と山極が訊くと、「言葉を持たない相手に言葉を映し出すと、書くべきものがくっきり見えてくるんです」と小川が答える。“言葉の海”に潜って必要な言葉を拾おうとする小説家の工夫が面白い。
このくだりを読んだとき、すぐに次の句が浮かんだ。
「山鳩よみればまはりに雪がふる 高屋窓秋」(季語:雪 冬) 
 窓秋は山鳩に何かを呼びかけた。すると鳩が答える代わりに、空から雪が静かに舞い降りてきた。しかも雪は周りには降っているが、作者と鳩のいる場所を降り残している。この二者で完結した神聖な空間を、窓秋は描きたかった。そのために、言葉を持たない山鳩に呼びかけたのだった。
「私が最も深い共感を覚えるのは、夕暮れにイヌと散歩に行って、『きれいな夕焼けね』とつぶやいて、イヌもそう感じていると思えるときです」と小川が言うと、山極は「言葉をしゃべらない方が、共感できるかもしれない」と答える。
このやり取りを読んだ際、僕の脳裏に浮かんだのは次の句だった。
「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉」(季語:初しぐれ 冬)
 芭蕉は寒さに震えながら、思わず猿に「おまえも小蓑がほしいのか?」と問いかける。そして自分の詠むべき言葉「初しぐれ」を見出したのではないかと思う。
 山極と小川の対談は、最初は一度きりのはずだった。だが興に乗った二人は、その後も対談を重ねる。しまいには二人で山極の研究拠点のひとつである屋久島を旅する。鹿や猿の棲息する原始の森が残る島で、両者はゴリラと小説についての論議を具体的に検証するのだった。谷川を渡っては話し、動物に出会っては実感を分け合う。
旅から帰った山極は、「原始の時代から、ゴリラと人間は歩いてさまざまな森の住民と出会うことによって暮らしてきました。(中略)森は人間が登場する前から存在しているのに対し、言葉は人間以前には存在せず、つくり出さなければ現れないということです」と吐露する。一見、言葉には頼らないと言いたげなように思えるが、山極は「ぼくたち人間が原初の森の精神にもどるにはどうしたらいいのか。それはふたたび言葉の力に頼るしかないとぼくは思います」と続ける。それは冒頭の小川の「懐かしい場所へ戻ろうとして、自分は小説を書いているのかもしれない」という言葉と、見事に対をなすのだった。
「牛死せり片眼は蒲公英に触れて 鈴木牛後」(季語:蒲公英 たんぽぽ 春)
これは酪農家俳人・牛後の代表句だ。牛後はむやみに牛に話しかけない。あくまで客観写生に徹する。それでも牛後と牛との間にある交流が句から滲み出す。死の直前まで牛の見ていた蒲公英が、今、現実のモノとして眼に触れている。無常や残酷などという抽象的な言葉では表せない光景が広がる。言葉以前からあるものを捉えるには、俳句においても動物を鏡にする方法が有効なのかもしれない。そしてそれは作者と動物との緊密な繋がりがないと成立しない。
どうやら俳句は言葉のある世界とない世界の境界線上に存在しているようだ。山極は本書の最後をこんな言葉で締めくくっている。「言葉の海はゴリラの森と地続きでなければならないのです」。
「横臥せる牛みな午(ルビ:ひる)の目をして春 牛後」(季語:春)

俳句結社誌『鴻』2022年2月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店