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2024.09.24
『忘れられた日本人』 宮本常一・著 岩波文庫・刊  

『忘れられた日本人』 宮本常一・著 岩波文庫・刊  
 今年6月、NHK Eテレ『100分de名著』で、民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』が4週にわたって紹介された。民俗学というと柳田国男しか知らなかった自分にとって、宮本の存在は大きな発見だった。日本人の心にアカデミックに迫った柳田に対して、宮本は歴史の本には残らない庶民の日常を採集して歩いた。彼はリュックを背負いゲートルを巻き、徒歩で出かけて地域の人の話を聞き、書き留めていったという。柳田が電車や汽車を駆使して旅先の祭や風物を学者の目で見て記録したのとは大きく異なっている。宮本は普通の人々が実生活で使う漁具などに注目して「モノ」から日本人を描こうとした。その即物的なアプローチに、僕は俳句に近い方法論を感じたのである。

「死にたれば人来て大根(だいこ)煮(た)きはじむ 下村槐太」(季語:大根 冬)
「塩田に百日筋目つけとほし 澤木欣一」(季語:塩田 夏) 
 「死にたれば」は、かつて日本のどの村々にもあった通夜の光景であろう。近所の主婦が葬家に集まって賄いを手伝っている。こうした光景を宮本は訪ね歩いた。この句は政治や宗教とは異なる地域共同体の互助精神を、「大根」というモノを通して描いている。  
 一方で「塩田に」は柳田の民俗学に近い視点で詠まれている。旅行者、あるいは傍観者である作者が塩田に幻を見ている。句の中で肌を刺すような直射日光の痛みは消され、ファンタジックな美しさが残る仕掛けが施されている。

宮本の言う「忘れられた日本人」とは一体、誰を指すのだろうか。明治維新や昭和の高度成長期など、世の中が大きく変わる時期に失われた「日本人像」がある。権力の押し付けるルールや利益最優先の経済の制度とはまた別の、歴史に残らない人々の営みがあった。彼らは地域の相互扶助など、社会の外側の仕組みをうまく使って生き抜いてきた。やがてそれらは失われていくのだが、宮本はそれを書き残そうとした。
「子も手うつ冬夜北国の魚とる唄 古澤太穂」(季語:冬夜)  
「誰も病まずすっからぴんの冬おわる 野宮猛夫」(季語:冬)
 「子も手うつ」は、北国の勇壮な漁歌に合わせて手拍子する子供を主人公にして、漁の過酷さと歓びを迫力たっぷりに描いている。
「誰も病まず」からは、医療資源の乏しい地域の冬を生き抜いた貧しい一家の安堵が伝わってくる。病気になったとしても病院は遠く、また医療費の確保も心もとない。まずは生きて春を迎えることができた一家のリアルな喜びがここにある。もちろん彼らの周囲には、同じように厳しい冬を生き延びた人々の姿があるだろう。

 宮本は主に聞き書きによって『忘れられた日本人』を著したが、中で「名倉談義」では座談会形式で村の労働の在り方を伝える。
ある百姓が「あんたがおそうまで田で働いていたから、上の家に明かりをつけておくよう言っておいた」と言うと、相手は「へえ、そうじゃったかのう。わしはまた、あの家はいつでも夜おそうまで表にあかりをつけてくれているので、鍬先が見えるもんだから夜おそうまで仕事ができてありがたかった」と答えたという。お互いに知らないうちに助け合っていた。小さな村のさりげない共助の様子が見えるようだ。大概の歴史書で農民は搾取される階層として描かれることが多いが、実は彼らは協力し合いながら豊かさへの夢を共有していたのである。 

 『忘れられた日本人』で最も魅力的だったのは馬喰の「土佐源氏」の章だった。馬喰は牛馬の売買を仲介する仕事で、あちこちを巡って移動生活を送るのが常だった。駄目な牛を良い牛と偽って売りつけ、半年くらい経って再訪してみると、「百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金(きん)にかえよる。そういう者から見れば、わしら人間のかすじゃ」と土佐源氏は宮本に語る。 
 土佐源氏は父親不明のまま生まれ、母親も早くに死んでしまったので祖父母に育てられたあげく、馬喰になった。漂泊生活の中で彼は役人の嫁やら後家さんやらいろいろな女性と関係を持つのだが、どの女性にも独特の優しさで接して相手に幸せな時間を与えた。
宮本に会ったころ、土佐源氏は高知の山奥で乞食暮らしをしていたが、その身を恥じてはいなかった。それどころか共同体の外側で暮らしてきた者としての独白は、宮本の聞き書きを経て『土佐源氏』という一人芝居の原作となり、俳優の坂本利長によって千二百回を越える公演が行われたのだった。彼のライフヒストリーにはそれほどの共感を呼ぶ温かさがあった。「わしら人間のかすじゃ」と言いながら、土佐源氏はその地域での役割をまっとうしていたのである。

この土佐源氏をはじめ、アウトサイダーも含めて日本各地の「無名の人々」はさまざまな生活の知恵を生み、暮らしを豊かにした。何ひとつ歴史の本には残らない日常であっても、それらは語り継がれるべき貴重な「日本人像」なのかもしれない。そして俳句がそうした人々の営みを映すしるしになれば幸いだと思う。
「牛死せり片眼は蒲公英に触れて 鈴木牛後」(季語:蒲公英 たんぽぽ 春)

         俳句結社誌『鴻』2024年9月号より加筆・転載 

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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『忘れられた日本人』 宮本常一・著 岩波文庫・刊  

『忘れられた日本人』 宮本常一・著 岩波文庫・刊  
 今年6月、NHK Eテレ『100分de名著』で、民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』が4週にわたって紹介された。民俗学というと柳田国男しか知らなかった自分にとって、宮本の存在は大きな発見だった。日本人の心にアカデミックに迫った柳田に対して、宮本は歴史の本には残らない庶民の日常を採集して歩いた。彼はリュックを背負いゲートルを巻き、徒歩で出かけて地域の人の話を聞き、書き留めていったという。柳田が電車や汽車を駆使して旅先の祭や風物を学者の目で見て記録したのとは大きく異なっている。宮本は普通の人々が実生活で使う漁具などに注目して「モノ」から日本人を描こうとした。その即物的なアプローチに、僕は俳句に近い方法論を感じたのである。

「死にたれば人来て大根(だいこ)煮(た)きはじむ 下村槐太」(季語:大根 冬)
「塩田に百日筋目つけとほし 澤木欣一」(季語:塩田 夏) 
 「死にたれば」は、かつて日本のどの村々にもあった通夜の光景であろう。近所の主婦が葬家に集まって賄いを手伝っている。こうした光景を宮本は訪ね歩いた。この句は政治や宗教とは異なる地域共同体の互助精神を、「大根」というモノを通して描いている。  
 一方で「塩田に」は柳田の民俗学に近い視点で詠まれている。旅行者、あるいは傍観者である作者が塩田に幻を見ている。句の中で肌を刺すような直射日光の痛みは消され、ファンタジックな美しさが残る仕掛けが施されている。

宮本の言う「忘れられた日本人」とは一体、誰を指すのだろうか。明治維新や昭和の高度成長期など、世の中が大きく変わる時期に失われた「日本人像」がある。権力の押し付けるルールや利益最優先の経済の制度とはまた別の、歴史に残らない人々の営みがあった。彼らは地域の相互扶助など、社会の外側の仕組みをうまく使って生き抜いてきた。やがてそれらは失われていくのだが、宮本はそれを書き残そうとした。
「子も手うつ冬夜北国の魚とる唄 古澤太穂」(季語:冬夜)  
「誰も病まずすっからぴんの冬おわる 野宮猛夫」(季語:冬)
 「子も手うつ」は、北国の勇壮な漁歌に合わせて手拍子する子供を主人公にして、漁の過酷さと歓びを迫力たっぷりに描いている。
「誰も病まず」からは、医療資源の乏しい地域の冬を生き抜いた貧しい一家の安堵が伝わってくる。病気になったとしても病院は遠く、また医療費の確保も心もとない。まずは生きて春を迎えることができた一家のリアルな喜びがここにある。もちろん彼らの周囲には、同じように厳しい冬を生き延びた人々の姿があるだろう。

 宮本は主に聞き書きによって『忘れられた日本人』を著したが、中で「名倉談義」では座談会形式で村の労働の在り方を伝える。
ある百姓が「あんたがおそうまで田で働いていたから、上の家に明かりをつけておくよう言っておいた」と言うと、相手は「へえ、そうじゃったかのう。わしはまた、あの家はいつでも夜おそうまで表にあかりをつけてくれているので、鍬先が見えるもんだから夜おそうまで仕事ができてありがたかった」と答えたという。お互いに知らないうちに助け合っていた。小さな村のさりげない共助の様子が見えるようだ。大概の歴史書で農民は搾取される階層として描かれることが多いが、実は彼らは協力し合いながら豊かさへの夢を共有していたのである。 

 『忘れられた日本人』で最も魅力的だったのは馬喰の「土佐源氏」の章だった。馬喰は牛馬の売買を仲介する仕事で、あちこちを巡って移動生活を送るのが常だった。駄目な牛を良い牛と偽って売りつけ、半年くらい経って再訪してみると、「百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金(きん)にかえよる。そういう者から見れば、わしら人間のかすじゃ」と土佐源氏は宮本に語る。 
 土佐源氏は父親不明のまま生まれ、母親も早くに死んでしまったので祖父母に育てられたあげく、馬喰になった。漂泊生活の中で彼は役人の嫁やら後家さんやらいろいろな女性と関係を持つのだが、どの女性にも独特の優しさで接して相手に幸せな時間を与えた。
宮本に会ったころ、土佐源氏は高知の山奥で乞食暮らしをしていたが、その身を恥じてはいなかった。それどころか共同体の外側で暮らしてきた者としての独白は、宮本の聞き書きを経て『土佐源氏』という一人芝居の原作となり、俳優の坂本利長によって千二百回を越える公演が行われたのだった。彼のライフヒストリーにはそれほどの共感を呼ぶ温かさがあった。「わしら人間のかすじゃ」と言いながら、土佐源氏はその地域での役割をまっとうしていたのである。

この土佐源氏をはじめ、アウトサイダーも含めて日本各地の「無名の人々」はさまざまな生活の知恵を生み、暮らしを豊かにした。何ひとつ歴史の本には残らない日常であっても、それらは語り継がれるべき貴重な「日本人像」なのかもしれない。そして俳句がそうした人々の営みを映すしるしになれば幸いだと思う。
「牛死せり片眼は蒲公英に触れて 鈴木牛後」(季語:蒲公英 たんぽぽ 春)

         俳句結社誌『鴻』2024年9月号より加筆・転載 

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著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店