HAIKU

2024.11.04
朝ドラ『虎に翼』 放送・NHK 

朝ドラ『虎に翼』 放送・NHK 
 NHK朝ドラ『虎に翼』は大反響の中、九月末に幕を閉じた。日本で初めて女性として弁護士、判事、裁判所長を務めた三淵嘉子をモデルにしたオリジナル・ストーリーで、作は吉田恵里香、主演は伊藤沙莉(佐田寅子・役)。このドラマは句会でも話題になることが多く、十年ほど前の『あまちゃん』以来の幅広い層の関心を集めた。
 女性の人権問題がメインテーマとして扱われていたのだが、登場人物たちの会話の質が素晴らしかった。「まあまあ」とか「そこまでは」といった忖度は一切なく、問題の本質にしっかりと焦点を当てる。保守的な家族観を持つ人もいれば、先進的な考えを持つ人もいて、彼らが交わす議論は変に片寄らず塩梅がとてもよかった。やや理屈っぽい面もあったりしたが、互いを尊重し合いながらの論議は小気味よくさえあった。それは脚本が差別される女性の側に主軸を置くことに徹していたからだろう。
「足袋つぐやノラともならず教師妻 久女」(季語:足袋 冬) 
「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 竹下しづの女」(季語:短夜 みじかよ 夏)
 「足袋つぐや」はこうした話題になると必ず挙げられる句。フェミニズム運動の端緒となったイプセンの戯曲『人形の家』を下敷きにしたこの句は、堂々と社会に出ることのかなわない久女の鬱々とした気持ちが込められている。
 一方で「短夜や」には「須可捨焉乎(すてつちまをか)」という漢文の言い回しを援用するしづの女の気概が感じられる。当時は漢語を女性が使うのは生意気だという男流俳人からの批判もあったという。今では信じられないような雑言ではあるが、百年前の俳句界の様相が伝わってくる。『虎に翼』の描く法曹界も似たようなものだったろう。
「汗臭き鈍の男の群に伍す しづの女」(季語:汗 夏)  
「三井銀行の扉の秋風を衝いて出し 同」(季語:秋風) 
鬱屈していった久女に対して、しづの女はタフに闘いを挑んでいく。それは男女に関係なく考えを尽くそうという寅子のセリフと重なっていく。
『虎に翼』は女性の社会進出や地位向上から被爆者訴訟、少年法、相続権や尊属殺など、今の夫婦別姓論議にもつながる命題に遠慮なく突っ込んでいく。さらにはLGBTQまで飛び出して、現代の政治や司法の在り方を問う切り口は、従来の朝ドラの範疇に収まらないものがあった。 
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子」(季語:蛍 夏) 
「夏痩始まる夜は『お母さん』売切です 加藤知世子」(季語:夏痩)
「じゃんけんで」は「蛍」を「女」に入れ替えると、上質のユーモアが痛烈な皮肉に転じる。知世子は楸邨の妻で、俳誌『女性俳句』の創刊と編集に携わった。「夏痩」はそのキャリアを象徴するような句である。
『虎に翼』でもうひとつ面白かったのは、米津玄師(よねづ けんし)が書き下ろした主題歌「さよーならまたいつか!」だった。放送ではドラマのオープニングに一番が使われたが、続く二番の歌詞は♫しぐるるやしぐるる町へ歩み入る♫となっていて、種田山頭火の「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」(季語:しぐれ 冬)を踏まえていると米津本人が語っている。その他、影響を受けた文学者として宮沢賢治と石川啄木の名を挙げていて、俳人、詩人、歌人からの影響を平然と口にするJ-POPアーティストは珍しく、関心を持った。 
米津が初めて紅白歌合戦に登場したときに歌った「Lemon」の歌詞は、♫言えずに隠してた昏い過去も♫となっていて、「昏い」という漢字が選ばれていた。「さよーならまたいつか!」でも♫口の中 はたと血が滲んで 空に唾を吐く♫と、「はたと」という言葉を使っている。これらはある意味、“死語”ではあるが、的を得た表現だと思う。
米津は難しい言葉が好きだと言っては、よく「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」という史記の諺を例に挙げる。「燕雀(えんじゃく)」や「鴻鵠(こうこく)」などの言葉は、滅多に使われないが、その言葉でしか表せない意味を含んでいるから純粋だと言うのだ。
一方で「さよーならまたいつか!」には♫100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!♫というフレーズがあり、「知らねえけれど」や「さよーなら」など朝ドラにはふさわしくない乱暴な言い回しが出てくる。
この難しい言葉と荒々しい言葉の並列は何を意味しているのか。それは先のしづの女の句の「須可捨焉乎」=「捨てることができるだろうか? いや、できない」という反語的表現に通じていると思う。男性優位の俳壇において、強烈な漢文調の表現を使うことでしづの女は颯爽と果し状を突きつけた。 
もしかすると米津は「百年先は知らねえ」とうそぶくことで、法曹界で悪戦苦闘する寅子たちを後押ししようとしたのではないか。直接的な応援ではないにしても、彼女たちの反骨に応じていたのではないかと妄想してしまった。
果たして今の世の中は、誰もが自由で平等な世界になっているのだろうか。百年前より進歩しているのか。毎朝、考えさせてくれたドラマに感謝したい。
「 たゞならぬ世に待たれ居て卒業す しづの女」(季語:卒業 春)

俳句結社誌『鴻』2024年11月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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朝ドラ『虎に翼』 放送・NHK 

朝ドラ『虎に翼』 放送・NHK 
 NHK朝ドラ『虎に翼』は大反響の中、九月末に幕を閉じた。日本で初めて女性として弁護士、判事、裁判所長を務めた三淵嘉子をモデルにしたオリジナル・ストーリーで、作は吉田恵里香、主演は伊藤沙莉(佐田寅子・役)。このドラマは句会でも話題になることが多く、十年ほど前の『あまちゃん』以来の幅広い層の関心を集めた。
 女性の人権問題がメインテーマとして扱われていたのだが、登場人物たちの会話の質が素晴らしかった。「まあまあ」とか「そこまでは」といった忖度は一切なく、問題の本質にしっかりと焦点を当てる。保守的な家族観を持つ人もいれば、先進的な考えを持つ人もいて、彼らが交わす議論は変に片寄らず塩梅がとてもよかった。やや理屈っぽい面もあったりしたが、互いを尊重し合いながらの論議は小気味よくさえあった。それは脚本が差別される女性の側に主軸を置くことに徹していたからだろう。
「足袋つぐやノラともならず教師妻 久女」(季語:足袋 冬) 
「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 竹下しづの女」(季語:短夜 みじかよ 夏)
 「足袋つぐや」はこうした話題になると必ず挙げられる句。フェミニズム運動の端緒となったイプセンの戯曲『人形の家』を下敷きにしたこの句は、堂々と社会に出ることのかなわない久女の鬱々とした気持ちが込められている。
 一方で「短夜や」には「須可捨焉乎(すてつちまをか)」という漢文の言い回しを援用するしづの女の気概が感じられる。当時は漢語を女性が使うのは生意気だという男流俳人からの批判もあったという。今では信じられないような雑言ではあるが、百年前の俳句界の様相が伝わってくる。『虎に翼』の描く法曹界も似たようなものだったろう。
「汗臭き鈍の男の群に伍す しづの女」(季語:汗 夏)  
「三井銀行の扉の秋風を衝いて出し 同」(季語:秋風) 
鬱屈していった久女に対して、しづの女はタフに闘いを挑んでいく。それは男女に関係なく考えを尽くそうという寅子のセリフと重なっていく。
『虎に翼』は女性の社会進出や地位向上から被爆者訴訟、少年法、相続権や尊属殺など、今の夫婦別姓論議にもつながる命題に遠慮なく突っ込んでいく。さらにはLGBTQまで飛び出して、現代の政治や司法の在り方を問う切り口は、従来の朝ドラの範疇に収まらないものがあった。 
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子」(季語:蛍 夏) 
「夏痩始まる夜は『お母さん』売切です 加藤知世子」(季語:夏痩)
「じゃんけんで」は「蛍」を「女」に入れ替えると、上質のユーモアが痛烈な皮肉に転じる。知世子は楸邨の妻で、俳誌『女性俳句』の創刊と編集に携わった。「夏痩」はそのキャリアを象徴するような句である。
『虎に翼』でもうひとつ面白かったのは、米津玄師(よねづ けんし)が書き下ろした主題歌「さよーならまたいつか!」だった。放送ではドラマのオープニングに一番が使われたが、続く二番の歌詞は♫しぐるるやしぐるる町へ歩み入る♫となっていて、種田山頭火の「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」(季語:しぐれ 冬)を踏まえていると米津本人が語っている。その他、影響を受けた文学者として宮沢賢治と石川啄木の名を挙げていて、俳人、詩人、歌人からの影響を平然と口にするJ-POPアーティストは珍しく、関心を持った。 
米津が初めて紅白歌合戦に登場したときに歌った「Lemon」の歌詞は、♫言えずに隠してた昏い過去も♫となっていて、「昏い」という漢字が選ばれていた。「さよーならまたいつか!」でも♫口の中 はたと血が滲んで 空に唾を吐く♫と、「はたと」という言葉を使っている。これらはある意味、“死語”ではあるが、的を得た表現だと思う。
米津は難しい言葉が好きだと言っては、よく「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」という史記の諺を例に挙げる。「燕雀(えんじゃく)」や「鴻鵠(こうこく)」などの言葉は、滅多に使われないが、その言葉でしか表せない意味を含んでいるから純粋だと言うのだ。
一方で「さよーならまたいつか!」には♫100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!♫というフレーズがあり、「知らねえけれど」や「さよーなら」など朝ドラにはふさわしくない乱暴な言い回しが出てくる。
この難しい言葉と荒々しい言葉の並列は何を意味しているのか。それは先のしづの女の句の「須可捨焉乎」=「捨てることができるだろうか? いや、できない」という反語的表現に通じていると思う。男性優位の俳壇において、強烈な漢文調の表現を使うことでしづの女は颯爽と果し状を突きつけた。 
もしかすると米津は「百年先は知らねえ」とうそぶくことで、法曹界で悪戦苦闘する寅子たちを後押ししようとしたのではないか。直接的な応援ではないにしても、彼女たちの反骨に応じていたのではないかと妄想してしまった。
果たして今の世の中は、誰もが自由で平等な世界になっているのだろうか。百年前より進歩しているのか。毎朝、考えさせてくれたドラマに感謝したい。
「 たゞならぬ世に待たれ居て卒業す しづの女」(季語:卒業 春)

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連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店