今年は“ジャズ誕生100周年”。この機会に、改めてジャズの魅力に触れてみるのも楽しいだろう。ジャズには、100年経って色褪せないパワーがある。最近では矢野顕子と上原ひろみのコラボ・ライブのCDが発売されたり、4月からこの強力デュオ“ラーメンな女たち”のツアーが予定されている。
僕は昨年、俳句結社誌「鴻」に、現在、ビッグコミック誌に連載中のジャズ漫画『ブルージャイアント』について書いた。今は舞台を日本からヨーロッパに移して、『BLUE GIANT SUPREME』としてストーリーは続いている。この傑作コミックスが今年(2017年)の“小学館漫画賞”を受賞したので、先の原稿に加筆して読んでいただきたいと思う。
ちなみに僕のフェバリット・ジャズアルバムは、1968年に録音されたチック・コリアの『Now He Sings,Now He Sobs』だ
『ブルージャイアント』 石塚真一・著 小学館・刊
音楽を題材にしたコミックス(漫画)はたくさんあるが、この『ブルージャイアント』は十指に入る作品となるだろう。「なるだろう」と書いたのは、この作品がコミック誌“ビッグコミック”にまだ連載中だからだ。それでも今回、紹介するのは、ストーリーが新しい展開を迎えたからだ。連載の当初からこのコミックスに注目していた僕は、いつこの作品を紹介しようかとタイミングを計っていた。それほどに最初から高いレベルで音楽が描かれていたのである。
作者の石塚真一は山岳救助漫画『岳 みんなの山』で知られる実力派で、『岳』でも小学館漫画賞を受賞している。
『ブルージャイアント』は、十代の若者が世界一のジャズのサックス・プレイヤーを目指す話である。僕はまず、この若者が“ジャズ”という音楽ジャンルを選んだことに注目した。多くの音楽漫画はロックやクラシックを題材にしている。美少年や美少女が、ロックバンドを組んで活躍する物語は想像しやすい。あるいはクラシックのオーケストラを通しての青春群像劇もまた受け入れられやすいだろう。しかし作者の石塚は、主人公にジャズを志すことを求めた。
ジャズは歌よりも楽器演奏が中心で、楽譜に忠実に演奏するよりも、アドリブの要素が強い。演奏者が協力して一個の音楽を作るというより、互いが触発し合って、毎回違う高みを目指すというスタイルを持つ。そこが「わけのわからない音楽」というイメージを持たれてしまう原因になっている。さらにジャズは、音楽ジャンルとしてとっくに最盛期を過ぎたものと思われているのが現状だ。
僕はこの設定を見たとき、「なんだか俳句に似ているな」と思った。即興的な要素が大きく、句会は協力というよりは互いに触発し合う場である。何より、古くさい文芸だと思われていることが共通していると思ったのだ。
『ブルージャイアント』の主人公“大(ダイ)”は、中高の6年間、バスケットボールに励むが、限界を感じていた。高3で部活が一段落すると、中学生のときに聴いて以来、好きだったジャズの道に進む決心をする。すると周囲の友達は、ジャズを聴いたこともないのに「大人でオシャレな音楽をやるんだって?」と大をからかうのだった。バカにする同級生に対して、大は真剣に「頼むからジャズを聴いてくれ」と説得する。
俳句をやっている若者が、同世代たちからどう見られるのか。「大人でオシャレ」とは言われないだろうが、「ジジくさい」くらいのことは言われるだろう。人気テレビ番組の“俳句コーナー”のおかげで以前ほどではないにしても、周囲から揶揄される可能性は高い。そのとき、「頼むから俳句を読んでくれ」、あるいは「俳句を詠んでくれ」と叫ぶ若い俳人を想像して、僕はニヤニヤしてしまった。
ここで『ブルージャイアント』のもう一つの特長を挙げてみよう。音楽を、音の出ない漫画で描くことは至難の業だ。それゆえロック漫画もクラシック漫画も、人間関係や歌詞で物語を組み立てる。しかし『ブルージャイアント』は音の出ないことを逆手に取って、1話まるまるセリフなしの週があったりする。演奏シーンのみを描くことによって、音楽が立ち上がってくるという奇跡が起こる。石塚の圧倒的な画力があればこその奇跡ではあるが、これまでの音楽漫画と一線を画す秘密はここにある。
大は音楽学校には行っておらず、楽譜も読めない。ひたすら古典の傑作CDのフレーズをコピーしまくる。大は落ち込む友を慰めるために、無伴奏のサックス・ソロを吹く。言葉はなくとも、友は大の心のこもった演奏に涙をあふれさせるのだった。
ある日、大はライブに出ないかと誘われる。酒場のバンドに加えてもらった大は、思い切りソロを吹く。すると客の一人が「うるさいんだよ、君は!」と怒り出す。バンドは大を演奏から外し、「静かな大人のジャズをお送りします」と演奏を続ける。
さて、“静かな大人の俳句”というものはあるのだろうか。僕は「ある」と言わざるを得ない。型に納まることを良しとする“ボリュームの小さな俳句”は厳然と存在する。そうした俳句に浸かり切った句会は、「静かな大人の俳句をお選びします」と言って、伸び盛りの若い俳人や、騒々しい句を作る俳人を排除するのかもしれない。
ここで、同時代の俳句の多面性をテーマに、読者の側から編まれた『俳コレ(俳句のこれからコレクション)』(2011年・刊)から何句か拾ってみよう。
「蜘蛛の膝死してするどく立ちにけり 望月周」
「まだ乳首をさなき猪(しし)の皮を干す 谷口智行」
「傘というつめたい骨の束をとく 福田若之」
「主婦となるセーターの腕ながながと 津川絵理子」
こうした句に実際の句会で出会ったら、“静かな大人の俳人”は気持ちがざわつくだろう。伝統から少しだけはみ出した句でも、「面白がり」や「珍奇な題材」と言って選を避ける傾向があるのかもしれない。
やがて大は自分たちでチケットを手売りして、ライブを行なうようになる。そこに集まってくるのは、“ジャズっぽくない客層”だった。彼らはジャズに詳しくはないが、演奏に込められたエネルギーに純粋に反応する聴衆だった。
ここにも大きなヒントがあるような気がする。俳句っぽくない人たちに選句をまかせる句会をしてみたら、どんなことが起こるのだろうか。俳句の技術や習慣から来る難解さから無縁な人々との対話は、本当の意味での“平明さ”に気付くチャンスとなるのではないか。
続編の『BLUE GIANT SUPREME』で、大は修行のためドイツに渡る。ジャズは本場アメリカで死にかけ、新しい血脈はどうやらヨーロッパにあるらしい。これもまた示唆に富んだ展開だ。
こうして『ブルージャイアント』は、様々な局面で“俳句の現状”をジャズに置き換えて考えるチャンスを、僕にくれたのだった。伝統の始まりは、革新者が作ったものなのである。
「店内に風船が飛ぶタコライス 北大路翼」